投稿記事を読み返すと、自分が綴ったことばでありながら、
どんどんだれかの文のように感じてくる。
ことばが自分から離れ、そこで息づきだしているみたい。
生まれ、離れ、それぞれの空気を纏っていく。
それはもう個としてのエネルギーを持ち始めているのだろうか。
・・・
わたしのなかで発揮されたがっているもの。
それは「自分を生きたい」ということだ。
今日はこれが浮かんできた。
以前は、「自分を使い切って死ねたらいいな」という言葉を
使っていたこともあった。
自分の中にある能力・可能性を活用できて、存分に使い尽くせている状態で
目を閉じれたらいいなと考えていた。
でも今は、「使い切る」というより、「それを感じて生きたい」という
より「今あるものを今活かす」感覚が大きくなっている。
しかし、自分を生きるということは中々容易ではない(少なくともわたしにとっては)。
自分に気づき、自分を活かせるように生きるようにするには、本を読んだり自己診断ツールを使ったり、興味関心を実行してみたり、自己・他己対話をしたりと、
じつにさまざまな方法を試してみないと自分に触れられていない。
その自分に気づいたとしたら、次にそれを表出させられるかということが待っている。
そこでは自信のなさや、周りの目、物質的条件など、外的な影響がハードルとなる。
本当にこんなことがしたいのだろうか、こんなことをしていていいのだろうかと
自分への疑問と生活していくことの間を、ぐらぐらと揺れ惑っている。
そんなことを書いていたら、なんだかすごくめんどくさいことを考えているもんだという気がわいてきた。
好きだからやる。やってみたいからやる。楽しさを感じたからまたやる。違ったから止める、変える。
その自分発信の第一段階で、反応すればいいんじゃないかと。
その気持ちを、まずは、受け止め大事にすることなんじゃないか、と。
「どうせ無理」じゃなくて、「だったらこうしてみたら」の思考。
その気持ちを体現できる、その気持ちで繋がれる環境。
優劣なく、早い遅いもなく、それぞれがそのときにあった状態にいること。
今は共感がないとお金が手に入りにくくて、生活がしにくい。
共感の代わりになるもの。それは生きるために必要だということ。
お金の代わりになるもの。それはいのちのための能力があること。
いのちのための能力と生きるために必要なことを共有し、
じぶんの好きに費やせる環境。
そうなったら人は、物々交換で価値を補い合えるだろうか。
相手の価値を思いあうことができるだろうか。
お金の利点は、腐らないこと。
価値は変わるが劣化はしない。
絶対的な部分もあるが、比較のなかで生じることもある。
その比較が、必要以上に影響を及ぼす。
絶対的な、主体的な、いのちの価値を、発揮するには。
自分の役割を全うすることだ。
自分の役割を生き、全うする。
だから自分に気づきたい。
すぐにわかるばかりじゃないから
そのための時間を費やしたい。
費やせる、費やしていい。
それを体現して、
自分も周りも
楽になってほしい。
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