2021/05/18

 ものをつくっていると、度々「自分はこの作品の一役を担っているにすぎない」と思うことがあるのです。

創始でもなければ完結でもない。その通過点の担当、または一役であることを認識させられます。

作品の部材をつくってくれる人、その材料をつくってくれる人。
羊の毛を刈る人、洗う人、育てる人。
電気をつくる人、そのエネルギーになる過去の命や自然のもの。

そんな様々な連綿としたものの中で、
自分はたまたま巡り合わせで羊毛照明を仕立てていること。

作り手、作り役、そんな印象です。

でもそこに上下はきっとない。
お互いがお互いにできること、得意なことを出し合っている。
それを認め合って、尊重し合って、必要なところを提供し合って、生きる。暮らす。
あたりまえかもしれないけれど、忘れがちなこと。それを見失うと、謙虚さを失って傲慢になったり、敬いを忘れてしまってあたかも自分が偉いとなってしまう。

自戒もこめて、そんな意識を持ちながら、自分が持っているものに気づき、育てて、じゅうぶんに活かしていけるようになって、
いまの世に関わっていきたいと思うんです。

そんな想いが巡った夜更けでした

0 件のコメント:

コメントを投稿

珠洲焼とときの流れを生きる。

  こちら珠洲焼といいます。 12世紀後半から15世紀末にかけて、能登半島先端・珠洲市内でつくられた焼き物です。 戦国時代に忽然と姿を消し、わずかに残された断片から400年の時を経て再び蘇ったもの。 古墳時代中期に大陸から伝わった須恵器の流れを汲んでいると言われています。 釉薬を...