「独自の感性」のことばから浮かんだこと。
そしてじぶんがなにものであるのかについて。
ルーツ。流れているものこと。
そしてこれを深め、発揮していくことへ繋がるためには、の、旅。
どんなものを吸収していき、どんなものを還元していくのかについて。
わたしの世界とは。
じぶんはどんなものであって、どんな対話者であるのか、の、旅。
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わたしの名前は顕嶺という。大きい山という意味が選ばれた。祖父も父も同じ意味で、ここに生まれてきた何かを感じなくもない。
そうかと思えば先日受けた算命学で、あなたは山と土の人だと言われ、別のリーディングでも山の性質だと言われ。プラスの面もマイナスの面もその性質があるんだという。
正直山にはそんなに立ち入ることは多くはない。登山も数えるほどだし、山の共同オーナークラブにも入っているが最近はご無沙汰。
それでも印象的なのは初めて登った白山と、スキーに行った時の雪の結晶。どちらも天の恵みを体感させてもらった。
海は、なぜか行くと足をよく怪我してた。眺めるのは好きなんだけど。
目に見えるものからも目に見えないものからも、そんな分析が入り、主観的な意思にどれほどの影響があるか線引きできていないが、わたしはこの山と土の性質がわりと気に入っている。
いのちを生み育む、成長の土壌もあれば、死を吸収する、腐敗の土壌もある。気分の浮き沈みがあるのは、その性質だろうと聞いた時は、自分の現象が言語化されて少し安心した。そういう時があるんだと受け止めるだけで、かなり楽になる。
生き育て、死を甘んじて受け入れる。その絶対的な循環に関わっていることに、大きさと尊さを感じる。
多様な生と死から成り立つ土壌のうえの生と成長。発酵したあたたかな土。落ち葉のやわらかさと新緑の清々しさ。
いのちを保つ水を濾過し、海嶺からは大地が生まれる。地球の循環、いのちの循環。多様な感覚の世界のなかで、感じるもの感じないもの、見えるもの見えないもの。それぞれの世界で生きている。
なにかを繋いでいるのか、自分の魂のレールを進んでいるのか。
その壮大なものものへ、わたしはどう成っていくのだろうか。どうなっていけばいいのだろうか。いや、そもそももうなっているのか、忘れているだけなのか。
この思考の広がりに、この身・実体がまだついていっていない感覚。
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意識をするとそちらへ向かう。
山のリズム、山のテンポ。空気感、あたたかさと冷たさ、でもそれは単なる事実にすぎないというただのひとつ。
一は全、全は一のなかでの自分の役割。人生の課題。魂の課題。それを手触りをもってこなしていく。まず知っていく。気づいて、使って発揮したい。
まだまだそんな大それた状態にはない気持ち。落ち着き、見渡し、深く、ただ単に受け止めること。
醸された土大地とそこにあるいきものの行き来をこの身に渡らせて。じぶんはただ高く大きくそこにあり、訪れも吸収も甘んじて受ける。そこにもつ作用を抱えて、次なる時間を見越すのだ。
わずかでもはるかでも、その間隔は想像できるんだろう。誤差は問題ではない。そうなるからという経験と受容。それは循環のうち、その範疇なんだ。
もし山が崩れ、形が変わり、塵になって、空気に、宇宙に放たれていっても、なにも変わらないのであろう。また別の形で、わたしはその性質を発揮するんだろう。ゆるやかで、でもたしかな巡りを。
まるで手をまわし、差し出し胸にしまい、引き出して、投げ放つ。また手を広げ、舞い降りてきたものを乗せ、寄せて、影響を分け、解き放つ。その行為を繰り返す。
誘い込んではいけない。それは魔のかんじがする。手を広げ伸ばして回してくるとからめとるようにも感じる。それは重たい。そんな抱え込みはしたくない。
ただ開け広げればいいのか。それも違う。ただ待つだけではない。
どうすればいいのか。たぶんどちらもできてしまう。でもひっぱりこみたくない。
いい気でいること。あそこに行く必要があると感じてもらうこと。ちょっとまだ恣意的なかんじがするけど、それを発することができること。訪れた人ものに届く範囲の息吹の波を吹かせること。それは前後の波なのか。前後なのか。
吸い込んで吐き出したい。最後は送り出したい。呼吸の循環。体内で巡らす。だから自分はいい状態にしておきたい。わたしは呼吸する。呼吸しないことはない。これは止めどない。死んでもするんだろう。
息を吐き出して送り出す。山から離れてもらう。また来たら焚き火でもして夜を眺めていけばいい。燃えたところで、またなにかになるだけだから、いつかまた戻る。必要な姿に。でもやることは変わらない。受け止め、送り出す。
え〜送り出したいの?困ったなぁ。今抱え込んで安定したいと思ってたのに笑。
まだまだ余分なものがあるのかな。余分なものを抱えるために、不要なエネルギーを使っているのかな。その装備はおろさなきゃ。脱いで軽くなって、でも浮ついてはいけない。腰が据わってどっしりしてないと
と思ったときに重さを感じた。なんか不自由。
尾骨あたりが定まってれば。そこに地球の反対側では大木になっているような根をさせればいい。
山の対極では小さな芽からはじめていればいい。
あぁ、それはすごく安心するな。
誰も知らない世界でも、また自分自身を生きることができる。青空と空気と愛とぬくもりをたくさん浴びて、思いっきり手を広げて陽を浴びる。風も浴びるし雨も浴びる。
でもそれは対極の山にも繋がっている。あぁ、そのバランスがいいな。そうするともっともっと自分の空気をまわしていける。よどみなく吐き出していける。
そしてその吐き出した息で、曇りや靄を吹き流していけたらいいな。雲にも靄にも役割や必要性があるけれど、そのときはそのときで仲良くして、吹き晴らせたらいいね。
そしてそれは、対極の小さな芽から巡らされる。
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