2025/06/30

蝶と花のように世界と関わる

花の蜜を吸ってまわる蝶を眺めていた

羽ばたきを変えながら次々と

止まっては吸い、止まっては吸いと繰り返している

蝶は、生きるために必要なことをしているんだろう

自らの本能と機能に従って、花々を往来している


その一方で

花はその身に蜜や花粉を携えて、存在している

蝶に花粉を運ばせ、子孫を残し、土と空気とやりとりをする



それぞれが

それぞれの範疇で生きながら

世界と関わっている



人間同士も、そういう生き方になるんだろうか

それとも人間同士ではなく

人と他の存在という単位なんだろうか


わたしたちの本能と機能で生きたら

どのように世界との関りが為されているんだろう

2025/06/29

ねこのお知らせ

 最近、以前に増してねこのお知らせを聞いてみようとしている。

わが家の琥助さん(推定6歳、キジトラ♂)は、けっこう鳴く。


腹減った なでて どこ行ったの そばにいて


ノラ猫出身で

2度ほど食べられない期間をこなしてきて

キジトラらしい寂しがり屋の甘えん坊っぷりを発揮する彼の

メッセージは大きくつよい。

一聞すると、うるさかったりいらだったりしてしまうような声を出しまくるのだが、

最近とらえ方の意識を変えようとしている。

それは、ねこからのお知らせだということ。


「なでて」の声は、「スマホから手を離して」

「お腹減った」の声は、「一緒にご機嫌でいよう」

「そばにいて」の声は、「ひと息ついて力を抜いて」


そうやってねこのお知らせに従ってみると、

こちらの時間も穏やかなものに変わる。

連続する情報の渦から、一旦抜けている。


ねこは生き方の先生のひとりだ。

6年前に偶然出逢って一緒に生きるようになった意味と必然を

一層感じる今日この頃である。

2025/06/27

じぶんでじぶんを抱きしめる

 じぶんでじぶんの身体に手をまわし、

抱きしめるような動作をとります。

この時、

手の温もりだったり、肌にあたる振動だったり、

その感触を感じます。

触れる・触れられるという感覚は、

それ自体で交わされるものがあるように思います。

しかし、そこに思考が挟まるといろんなことを考えてしまいました。

自分でやっててどうするの

結局ひとりなんだ

こんなこと意味があるんだろうか

それまで感じていた感覚が一変し、

心地が遠のいてしまいました。

そこで思ったことが、

この体感と思考は、同一のものではないんだなぁということでした。

からだはからだで

あたまはあたまで

味わえるものを大切にしてみたいと思ったのでした。

2025/06/25

灯りをつくりたかった理由

 なんのために灯りをつくってたんだっけ、と

よくわからなくなるときって、やっぱり訪れるものだった

寝室の枕元にかかる一灯を眺めるたびに味わう感覚


ひと息つく

今日もここにきたと安心する


そう

ゆっくり深く息をしたくなって

1日の終わりの少しのじかんでも

安心に寄与するための一灯


ぼくはいまそれを感じている

5年経った今日でさえも


まずはそれでじゅうぶんなんだ

じぶんのために、じぶんを満たせる灯りを

つくれていたんだってこと

2025/06/24

再び文字を打つ

 以前はよく書いていたんです。自分の中の徒然なること。

それがいつの間にやらだんだん回数が減っていき、最近ではほとんど文章にすることはなくなってました。

なにも考えていなかったわけではないんです。むしろ以前より思考や感覚は進んでいるというか、違う位置にいるというか、なんにせよ変化しております。

なんとなく思い浮かぶ理由は、思考の感覚が先に来て、体感の実感がまだ感じ切れていない(と思っている)から、はっきりと文字にして言い切れない気持ちがあったところがありそう。

声を発する会話では随時しゃべっていたと思います。その都度その都度。
あと、今いったん行き着いたところがシンプルワードになって、それを実現する”ちょうどいい”方法を探してぐるぐるしてたってのもあります。あたまで考えて、最短でいく方法を見つけたかったのかもしれません。でもそれってどうなんでしょうね。

あぁ、ちょうどいい媒体はどれだろう、やっぱりブログを新しく作るのがいいのかnoteでいいのかなんてことも考えていたら、余計にめんどくさくなっていたんでした。
とりあえずメモアプリには残しておこう。

また想いのまま文字を打ってみたいなと思ってきました。どれだけ続くのか、この投稿だけで終わるのか、ちょっとわかりません。
ひとまず、今日は机に座ってパソコンを開いて、これを打ち込むことができたので、ぱーっと公開してしまいます。

なにが起こるのかな。さて、どうぞいらっしゃいませ。

珠洲焼とときの流れを生きる。

  こちら珠洲焼といいます。 12世紀後半から15世紀末にかけて、能登半島先端・珠洲市内でつくられた焼き物です。 戦国時代に忽然と姿を消し、わずかに残された断片から400年の時を経て再び蘇ったもの。 古墳時代中期に大陸から伝わった須恵器の流れを汲んでいると言われています。 釉薬を...