2025/07/12

珠洲焼とときの流れを生きる。

 



こちら珠洲焼といいます。

12世紀後半から15世紀末にかけて、能登半島先端・珠洲市内でつくられた焼き物です。

戦国時代に忽然と姿を消し、わずかに残された断片から400年の時を経て再び蘇ったもの。

古墳時代中期に大陸から伝わった須恵器の流れを汲んでいると言われています。

釉薬を使わず、高温で溶けた灰が自然の釉薬となり、素地に炭化して独自の灰黒色の艶と質感が生み出されています。(説明参考:土産品・雑貨・珠洲焼の店てんださま https://www.instagram.com/tendashouten?igsh=bHF1b3BtdHdiamRy )


この珠洲焼を手にしたのは先日のこと。

帰郷した際に父に「輪島をまわりたい」と言われ同行したときのことでした。

父は幼稚園前後まで輪島で過ごし、曾祖父はその土地で輪島塗の職人をしていました。

普段はそんなに意識はしていないものの、自分の系譜に輪島という土地が流れていることを実感します。


能登半島地震から1年半が過ぎ、能登街道も通行ができているものの、途中はまだ速度を落とさないと走れないような道路の蛇行や隆起が残っていたり、

崩れかかった家が残されたままだったり、再建を待つ家屋がたくさん残っています。

この数少ない道路で繋がる土地の今後を、これまで以上に考え感じた1日でした。


その中で出逢った土地の方々は、みんな言っていました。

「わざわざこんなところまで足を運んでくれてありがとう。ありがとう。」

と。


同じ言葉を、東日本大震災から2年後に訪れたときの名取で言われたことを思い出します。

あの時感じた、漠然とした無力感や自分の身の上でなにかできることを身につけたいという想い。

それに近しいものを今回も感じましたが、あの頃より落ち着いて、実を持って、感じられているように思います。少し人生を生きてきて、得たものや手放したものがあるのでしょう。


今は無き曾祖父の家があった土地も眺め、日本海の波と香りを浴びると、

なんだか自分の奥底にあるなにかが共鳴しているようにも感じられます。

それはまだ言葉になり切らない、反響のようなものかもしれません。


そのときを、その流れを、生きていくこと。


その同一感と境界を、今日も生きています。

2025/07/05

弓道初心者教室 体験記①

 6月から始まった弓道初心者教室も今日で4回目。学生から大人まで、総勢25人+諸先輩方で道場はいっぱいになりながら学んで研鑽しています。

4回目となると、教室生同士や先輩方との顔も馴染みが進んできてか、会話も少しずつ増えたりやわらかくなったりしてきています。

連続する時間数の中の慣れもあるだろうが、こうして日が変わって繰り返し顔を合わせるというのは、安心につながるものだなぁと感じてます。同じ興味を同じくらいのレベルから始める集団。久しぶりなかんじ。

ここは結構やってみてスタイルで進んでいきます。まさか2回目で弓を持ち、実際に矢を射るとは思っていませんでした。頭だけでなく、身体で体感することもできるので、自分の変化や肌馴染みが増えていって楽しい。

型、力の抜きどころや要点の押さえどころ、形の意味や効果など、見て触って身体を動かしてとしていると、毎回あっという間の3時間です。

初心者教室もあと2回。これからどんな景色を味わっていくんだろう。

2025/07/01

人のケアの共通項を想う

 今一旦の到達点として、人のケアに必要だと思っていること。その3要素。


1.ゆるむ

2.調え

3.めぐり


この3つに至っている。

身体も心も。

整体の段取りの1パターンとして、

筋肉をゆるめてから骨格を調える。

心の段取りの1パターンとして、

気がゆるんでから自分の在るところに気づいて調える。

そうするとこの生きようと変化していく心身は、

必要なめぐりを行ってくれる。

思考以上のことも、この個体の枠以上のことも。

ぼくらのからだとこころとせかいは連綿とつながっている。

この個体は皮膚と空気で連鎖し、

光と内臓は通過しながら触れ合っている。


色と空。


いろんな状況の中で

いろんな環境の中で

それぞれの入り口をもって

この3つをおこなっていくんだろうな。

2025/06/30

蝶と花のように世界と関わる

花の蜜を吸ってまわる蝶を眺めていた

羽ばたきを変えながら次々と

止まっては吸い、止まっては吸いと繰り返している

蝶は、生きるために必要なことをしているんだろう

自らの本能と機能に従って、花々を往来している


その一方で

花はその身に蜜や花粉を携えて、存在している

蝶に花粉を運ばせ、子孫を残し、土と空気とやりとりをする



それぞれが

それぞれの範疇で生きながら

世界と関わっている



人間同士も、そういう生き方になるんだろうか

それとも人間同士ではなく

人と他の存在という単位なんだろうか


わたしたちの本能と機能で生きたら

どのように世界との関りが為されているんだろう

2025/06/29

ねこのお知らせ

 最近、以前に増してねこのお知らせを聞いてみようとしている。

わが家の琥助さん(推定6歳、キジトラ♂)は、けっこう鳴く。


腹減った なでて どこ行ったの そばにいて


ノラ猫出身で

2度ほど食べられない期間をこなしてきて

キジトラらしい寂しがり屋の甘えん坊っぷりを発揮する彼の

メッセージは大きくつよい。

一聞すると、うるさかったりいらだったりしてしまうような声を出しまくるのだが、

最近とらえ方の意識を変えようとしている。

それは、ねこからのお知らせだということ。


「なでて」の声は、「スマホから手を離して」

「お腹減った」の声は、「一緒にご機嫌でいよう」

「そばにいて」の声は、「ひと息ついて力を抜いて」


そうやってねこのお知らせに従ってみると、

こちらの時間も穏やかなものに変わる。

連続する情報の渦から、一旦抜けている。


ねこは生き方の先生のひとりだ。

6年前に偶然出逢って一緒に生きるようになった意味と必然を

一層感じる今日この頃である。

2025/06/27

じぶんでじぶんを抱きしめる

 じぶんでじぶんの身体に手をまわし、

抱きしめるような動作をとります。

この時、

手の温もりだったり、肌にあたる振動だったり、

その感触を感じます。

触れる・触れられるという感覚は、

それ自体で交わされるものがあるように思います。

しかし、そこに思考が挟まるといろんなことを考えてしまいました。

自分でやっててどうするの

結局ひとりなんだ

こんなこと意味があるんだろうか

それまで感じていた感覚が一変し、

心地が遠のいてしまいました。

そこで思ったことが、

この体感と思考は、同一のものではないんだなぁということでした。

からだはからだで

あたまはあたまで

味わえるものを大切にしてみたいと思ったのでした。

2025/06/25

灯りをつくりたかった理由

 なんのために灯りをつくってたんだっけ、と

よくわからなくなるときって、やっぱり訪れるものだった

寝室の枕元にかかる一灯を眺めるたびに味わう感覚


ひと息つく

今日もここにきたと安心する


そう

ゆっくり深く息をしたくなって

1日の終わりの少しのじかんでも

安心に寄与するための一灯


ぼくはいまそれを感じている

5年経った今日でさえも


まずはそれでじゅうぶんなんだ

じぶんのために、じぶんを満たせる灯りを

つくれていたんだってこと

「児童・思春期の自傷・自殺企図にどう向き合うか」

第4回多摩地域リエゾン会議「児童・思春期の自傷・自殺企図にどう向き合うか」に参加してきました。 この回は多摩地域内の病院や東京都保健医療局の方々が講演者に並び、地域の医療や行政・教育機関の皆様が集まる会でした。対面では100名近く、オンラインでは500名近くの方が繋がったといいま...